世の中に{映画}を教える学校がある。専門学校から大学まで、いっぱいある。
そこで、今、どんな授業が行われているのかは知らないけど、漠然と映画を学ぶと言っても、どうしていいか判らない。
監督に成りたい人は演出を、カメラマンになりたい人は撮影技術を・・・{映画}を勉強するという事は、映画を見る事を含めて、そんな事を、とりあえず、すべてひっくるめて学ぶ必要がある。
そんな僕も、30数年前、映画を学ぶために専門学校に入った。
まあ、今となってはナニを勉強したのか覚えていないけど、映画監督の勉強をした所で、映画監督にスグになれるはずもなく、卒業してすぐ、路頭に迷った。
ちょうど桜の季節だ。
映画監督にはなりたいけど、どうしたらいいか判らない、判らないながらも、家で寝ていていいはずはなく、カラッポの頭を働かせる。
まず、脚本を書こう、何か賞でも取れば認められて映画を取るチャンスが来るかもしれない、そして自主映画も撮ろう、こちらでも賞を取れば、もっとチャンスが来るだろう。大森一樹、石井聰亙、という前例があった、当時の映画監督志望の若者は、だいたいそんな事を考えていた。
そんな日々を過ごしていたある日、「ぴあ」という雑誌の中で、シネマ・プラセットという会社が鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」という映画のスタッフを募集しているという記事を見つける。
僕は卒業制作で作った16ミリ映画と、企画書を持って、シネマ・プラセットに行った、スタッフになる気は無く、映画を撮らせて欲しいと言いに行った。
ここからの話は書けば長くなるし、荒戸源次郎というプロデューサーに振り回された期間でもある。
ともかく僕は荒戸源次郎に言いくるめられ、シネマ・プラセットのスタッフとなり、東京タワーの下に映画館を建て、「ツィゴイネルワイゼン」を映写し、次の鈴木清順監督の「陽炎座」ではスタッフ・キャストの弁当作りをして、また「陽炎座」の映写にも携わった、この間に自主映画も監督し、「ぴあフィルムフェスティバル」にも入選する事が出来た。
次に鈴木清順監督の「ラプソティ(夢二)」という映画が企画されていて、次は助監督と言う事も決まっていた・・・しかし、「陽炎座」はヒットせず、小さな映画製作会社は、すぐに傾いた。
1993年。「ラプソティ(夢二)」のような大作は夢と消え、清順監督は電通の資本で、小さなビデオ作品を撮る事になる、スタッフは映画の5分の1ぐらい、キャストは伊武雅刀と風吹ジュンさんの二人だけ。
そんな中、やっと僕は助監督として、鈴木清順監督に付く事が出来た、うれしいだけだったが、すぐに、自分の実力を思い知らされる、映画を勉強し、自主映画の監督は出来ても、プロの助監督としてはまったくの素人で、ともかく、ナニも出来なかった、本当にチーフ助監督のSさんには迷惑をかけた。
それでも、逃げ出したい気持ちをこらえて、ともかく最後まで、この仕事をやり切った。
という、前置きが長くなったけど、僕が一番最初に助監督をした、思い入れのある作品が「ジャパネスク・春桜」だ。
ボロボロになった台本の表紙には、読みにくい字で「桜」(タイトル未定)とだけ書いてある。
資料は何一つ残っていないけど、台本の中に、少しだけメモが残っている。
エンピツの薄い字で書いてあるので、少しコントラストを強くして見ると、一番古い日付が3月3日、全部の日付があるわけではないけど、撮影日と、撮影したシーンナンバーがメモされている。
最後は5月9日 小淵沢でUP。とある、これだけを見ると、撮影期間だけでも2カ月の、ちょっとした大作で、2週間ほどで撮る2時間ドラマとはケタが違う事がわかる。
ネットで検索すると300日のロケと書かれていたりする記事もあるが、それは、どこから出て来た資料か判らないけど、デタラメである。
それでも60日の期間でも素人助監督には無謀なロケだ、さらに清順監督はよく判らない撮り方をする。シーンの途中でロケ場所が変わったりして、段々と、ナニを撮っているのか?、シーン全体は撮り終ったのか?、もう完全に助監督失格で、胃に穴があきそうだった。
さらに、上の台本のように、シーンはカットされ、新しいセリフが付け足されたりする・・・
この作品で一番大変だったのは、桜の花を、桜の枝に付けたり取ったりする事だった、トラックの荷台に桜の木を積んで運ぶ話だ、当然桜は散る、撮影はシーン順に撮る訳ではないので、造花の桜を付けたり、取ったりの毎日だったと記憶している。
もうひとつの問題は、僕自身が清順監督に委縮しすぎた事だ、「陽炎座」からの、付き合いではあったけど、監督と助監督という関係性の中で、言いたい事が言えない、本当にダメな助監督だった。
それでも、撮影はなんとか終り、僕は編集から、MA(マルチオーディオ・音関係の編集)、など、完成まで関わる事が出来、すごく勉強になった。
完成された作品はVHDという、今は無き、ビデオディスクの規格で発売され、1984年になって、ラフォーレ原宿で二日間だけ上映された。
AVよりも少し多いスタッフ編成。
ビデオカメラの古さが時代を感じさせる、4分の3インチ、Uマチックのテープでした。
現在はDVDでこの作品を見る事が出来る。
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